2012年 08月 29日
當麻寺と法隆寺
磯崎新が『空間の行間』で當麻寺の軸線のことを書いていて、面白かったので當麻寺について少し調べていた時のことです。
氏によると當麻寺は東西と南北と二重の軸線を有していて、東西方向のその先は伊勢神宮を指している。 伽藍配置は正にその通りで、金堂と東西の三重塔が南北軸を、本堂(曼荼羅堂)と東大門が東西軸を形成する。 しかし、ここで気になったのが西塔と東塔のズレです。少し東塔が下にずれているのです。 そういえば本堂と東大門を結ぶ東西軸も東大門が下にずれることでずれています。 google地図で當麻寺境内からグーンとひいて見ると、その南へ少し振れた西の先に伊勢神宮がありました。 その時(正確にはひいて行く途中)、伊勢神宮へ向かう軸の途上に畝傍山がありました。 話が前後します。 磯崎によると藤原京、平城京以降、中国の都市計画が入ってきて以来、天子南面する南北軸を主とした都市計画がなされるようになる。 寺院の伽藍配置についても同様。概ねそれ以前は太陽の運行に関わる土着信仰に基づく東西軸というものが重視されていて、なぜか當麻寺は両方の軸を用意しているということを書いています。 そして共著の福田和也が創建時は南北軸を、西方浄土の思想が入ってきてからは東西軸を強調するようになったと指摘している。 それは當麻寺が真言宗と並んで浄土宗をも宗派としていることともよく合致する。 ここからお二人のはなしとは、論点がずれていきます。 そもそも、なぜその僅かな軸のズレが気になったか。寺院というは東大寺のように南面して本堂が建ち、その真南に南大門があって、正確に南北軸を形成しているという大方のイメージがあったからです。 僕には當麻寺の伽藍配置は表向き南北軸の体裁を整えて、実のところ太陽神信仰に主眼を置いているように思えます。 南北軸の一角を担う三重塔をずらしてまで意図的に伊勢神宮(天照大御神)への軸を整備しているからです。 東西軸といわずに太陽神信仰と書いたのは、後に入ってきて強調するようになった浄土思想とは別の話だからです。 當麻寺の創建については、はっきりした定説がありません。 いろいろある説の中に、間接的にですが天武天皇と聖徳太子という名前が出てきました。天武帝といえば、教科書的には古事記、日本書紀の編纂に着手させ、伊勢神宮や国家神道を整え、同時に仏教をも保護した人物です。 wikiには「天皇を称号とし、日本を国号とした最初の天皇とも言われる。」とまで書かれるほど国粋的でありながら、国政安定のため仏教国家をも目指したということです。雑な議論ではありますが。 上述の當麻寺の伽藍配置に対する僕の印象がしっくりくる人物像ですね。さらに聖徳太子の名が出てきたので、法隆寺も調べました。 法隆寺は飛鳥時代の創建になるのですが、太子による斑鳩寺は現在の東院に建設されていて、西院に再建された現在の法隆寺は當麻寺に残る古い遺構と同時代(7世紀末頃)の建築です。それは太子の死後150年以上後のことで、かつ聖徳太子の通説自体『日本書紀』をベースにしたものなので、太子自体の存在を疑う説もあります。 法隆寺の伽藍配置を見ると南面して大講堂が建ち、その正面に中門があり正統な仏教寺の配置に見えます。しかしすぐ気がつくように、伽藍全体の南北軸が少し反時計回りにずれているんですね。 google地図でひいていくと、少し東へ振れた南へ向かう軸線のその先には畝傍山があり、更にその先にあるのは熊野三山でしょうか。 畝傍山といえば、以前にも出てきましたが橿原神宮、神武天皇。 熊野三山とは熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社の三社を指し、創建は前1世紀〜後4世紀と伝わる熊野信仰の中心地です。 伊勢と熊野では志向する内容が若干異なりますが、密かな信仰というような気分は共通してあります。 神武帝の白檮原(かしはら)の宮や、御陵の場所は前にも書いた通り特定されているわけではない。が、畝傍山はずっとそこにあったはず。 天武帝の時代、畝傍山はどんな状態だったのでしょう?つまり軸の目標たるにふさわしいような場所だったのか?ということ。 記紀に記述される神武帝はその実在性も含めて、いろんな説があります。天武の時代から1300年ぐらい過去に遡る話だ。時代も考えると何も痕跡を見つけられなくても不思議はない。天武帝もそう考えて、実在の地名を盛り込んで神武以下神代の歴史を作り上げたのではないか。 よって、当時の畝傍山には信仰の対象となる何ものもなかったと僕は思います。もし、當麻寺や法隆寺に天武帝周辺の政治的関与があったとするなら、畝傍山=神武のハク付けに利用したと考えられます。 では神武帝と神代の天皇たちはなぜ必要だったか? 一つは皇祖神アマテラスへと遡行する系譜をつくるためです。神武帝でもまだアマテラスまで5代遡らないといけないのですが、とにかく皇室とアマテラスを結ぶ、しっかりしたアンカー、中継点が必要だったのだと思います。 もう一つは政権の正当性を主張するための歴史を正史として定着させるためです。現在の覇権へと至る道筋を、虚実取り混ぜて自在に引き受けてくれる人物が必要であった。だから神武は複数の人物の事蹟の受け皿になってるのだと思われます。 同様に、例えばスサノオノミコトのように記紀に多くの神話が残されている神はある程度の読み替えは必要であるにせよ、事実に基づいた複数の人物の事蹟の受け皿になっているのだと考えられます。 だから梅原猛が『神々の流竄』で述べるように、記紀神話に対しては、本居宣長のように全て事実としてかかってはいけないし、津田左右吉のように全て虚構としてもいけない。政治に虚偽はつきものだとした上で、そこに仕掛けられた作為を読み取ることが必要だと。 巧妙な嘘つきは99%の真実の上に、1%の渾身の虚偽を盛ると。 氏の議論はとてもおもしろいのですが、まるまる受け入れることはできません。でもこの姿勢についてはまったく同感です。
by O-noli
| 2012-08-29 10:56
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